3行でいうと

  • 言語は文字や車輪のような発明ではなく、人間に共通の生得的な本能だと論じる。
  • 子どもは明示的な教えなしに、短期間で複雑な文法を身につける。
  • ピジンからクレオールへ、聾児の手話づくりなど、文法を生む力の証拠を示す。
  • 「言葉の乱れ」を嘆く規範的なルールの多くは恣意的だと批判する。

向いている人

言語や心の進化に関心がある人に向きます。言語学や進化の基本が少しあると読みやすい、上下巻の読みごたえある本です。

読む意味

言語がどこから来て、どう身につくのかを、生得性と進化の観点から幅広く学べます。生得主義の言語観をめぐる議論の出発点として読む意味があります。

読むときの注意

本書は、言語が思考に影響するとするサピア=ウォーフ仮説を強く退けますが、後にその影響を再評価する立場からの応答もあります。また、言語学者の中には「言語本能」の存在自体を否定する人もおり、論争は今も続いています。

どんな本か

認知科学者の著者が、言語の起源と本質を、進化論と生成文法の観点から論じた一般向けの科学書です。ノーム・チョムスキーの生成文法・普遍文法の理論を土台に、言語は文化的に習得される技術ではなく、人類が進化の中で獲得した本能だという立場を、豊富な実証研究と平易な語り口で示し、大きな反響を呼びました。本書は、言語は子どもに教えなければならない、言葉の乱れは進行している、チンパンジーも言語を習得できる、といった通説を一つずつ検証して退けます。

論証の柱は、子どもの言語獲得です。子どもが耳にするのは不完全な文や言い間違いが多いのに、そこから正しい規則を取り出すという「刺激の貧困」が、生得的な装置の存在を支持する証拠とされます。架空の語「wug」の複数形を子どもが自発的に答える「ワグ・テスト」は、丸暗記ではなく規則を抽出していることを示します。さらに、異なる言語を話す労働者のピジン語を、その子どもたちが一世代で文法の整ったクレオール語に変える現象や、聾の子どもたちがニカラグアで自発的に手話を発達させた事例が挙げられます。

脳との関係では、ブローカ野やウェルニッケ野の損傷による失語症、特定の家系に見られる遺伝性の言語障害が論じられます。チンパンジーの手話実験は、階層的で再帰的な文法を欠くと評価されます。終盤では、「正しい英語」を説く規範文法を、歴史的な言語変化の一断面を切り取ったものとして批判します。

中身の柱

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概要

認知科学者スティーブン・ピンカーが1994年に発表した、言語の起源と本質を進化論と生成文法理論の観点から論じた一般向け科学書。ピンカーはハーバード大学(執筆当時はMIT)で言語の認知的基盤を研究してきた心理言語学者であり、本書はノーム・チョムスキーが提唱した生成文法・普遍文法の理論を土台としながら、言語能力が文化的に習得される技術ではなく、人類が進化の過程で獲得した生得的な「本能」であるという立場を、豊富な実証研究と平易な語り口で一般読者に提示した点で大きな反響を呼んだ。日本語版は椋田直子の翻訳により、上下巻構成で刊行されている。原著は483ページに及び、一般向け科学書として異例のベストセラーとなった。

本書のタイトルにもなっている中心的主張は、言語は文字や車輪のような人類の発明品ではなく、社会的な狩猟採集生活を送る中で情報伝達上の必要から進化的に獲得された、視覚や歩行と同じ種類の生得的な認知機能であるというものである。ピンカーはこの立場を「言語は本能である」という一文に集約し、子供が特別な訓練を受けずとも驚くべき速さで母語の複雑な文法を習得していく現象、聾の子供たちが自発的に文法構造を持つ手話を生み出す現象、脳の特定部位の損傷が特定の言語機能だけを選択的に損なう現象など、多岐にわたる証拠を積み重ねて論証していく。本書はまた、「子供は大人から言語を教えられねばならない」「言語の乱れは進行している」「サピア=ウォーフ仮説が正しい」「チンパンジーなどの動物も人間同様に言語を習得できる」といった、言語をめぐる一般に流布した通説を一つずつ検証し、反証していく構成をとっている点でも知られる。

本の構成

本書は、言語が本能であるという主張の提示から始まり、言語獲得の仕組み、文の構造を生み出す心の仕組み(心的文法)、単語の仕組み、音韻の仕組み、言語の起源と進化、子供の言語獲得の過程、脳と言語の生物学的基盤、そして「言葉の乱れ」を憂う言語純粋主義への反論という順序で展開される。前半は言語の構造そのもの(統辞論・形態論・音韻論)を認知科学の観点から解説する理論的な部分に充てられ、中盤では子供がどのようにしてこの複雑な文法体系を短期間で習得するのかという言語獲得の過程が扱われる。終盤では言語能力の生物学的・進化的基盤(脳の言語野、失語症、言語障害の遺伝的要因)が論じられ、最後に「正しい言葉遣い」を説く規範文法への批判という、より一般向けの実践的な話題で締めくくられる。

主要な内容(詳述)

言語は本能であるという主張

ピンカーは、言語を文化的な発明品と見なす従来の常識的な見方に対し、言語能力は人類という種に共通する生得的な認知機能であり、視覚や運動機能と同様に進化によって形成された「器官」の一種であると主張する。この立場は、言語が個々の文化や環境によってゼロから学習される任意の記号体系ではなく、あらゆる言語に共通する普遍的な文法構造(普遍文法)が存在するというノーム・チョムスキーの理論を土台としている。

チンパンジー言語実験批判

本書には、1970年代に大きな注目を集めた、チンパンジーに手話や記号を用いて言語を教えようとした一連の実験(ワショーやニム・チンプスキーといった個体を対象にした研究など)を検証する章が置かれている。ピンカーはこうした研究を再検討し、類人猿が習得したのは限られた語彙の組み合わせにとどまり、人間の幼児が自然に獲得するような階層的で再帰的な文法構造を欠いていると論じ、言語能力が人間という種に固有の生得的な認知機能であるとする本書全体の主張を補強する。

子供の言語獲得

本書は、子供が周囲の大人から明示的な文法指導を受けることなく、わずか数年のうちに複雑な文法規則を習得していく過程を詳しく検討する。子供が耳にする実際の発話には文法的に不完全な文や言い間違いが多く含まれているにもかかわらず、子供はそこから正しい文法規則を抽出できるという「刺激の貧困」の問題が取り上げられ、これが生得的な言語獲得装置の存在を支持する証拠の一つとして提示される。

バーコ・グリーソンの「ワグ・テスト」

心理言語学者ジーン・バーコ・グリーソンが1958年に行った古典的な実験(通称「ワグ・テスト」)も本書で紹介される。実験では、子供たちに「これはwugです」という架空の生物の絵を見せた上で、「もう一匹いたら、これらは何と呼ばれますか」と尋ねると、子供たちは"wug"という語を一度も耳にしたことがないにもかかわらず、複数形の規則を自発的に適用して"wugs"と答えることができた。ピンカーはこの実験を、子供が個々の単語を丸暗記しているのではなく、単語の背後にある規則そのものを抽出し、未知の語にも生産的に適用できる文法能力を備えていることを示す証拠として位置づける。

クレオール語の形成

言語学者デレック・ビッカートンらの研究を踏まえ、プランテーションなどで異なる言語を話す成人労働者たちが即席で作り出す文法の乏しい「ピジン語」を、その子供世代が一世代のうちに独自の完全な文法体系を備えた「クレオール語」へと自発的に発展させる現象が紹介される。ピンカーはこれを、子供の脳が不完全な言語入力からでも文法を自発的に「発明」してしまう生得的な能力の強力な証拠として位置づける。

聾児による手話の自発的創出

音声言語に触れる機会を持たない聾の子供たちが、身振りによる意思疎通(ホームサイン)を、世代を経るにつれて自発的に文法構造を持つ本格的な手話言語へと発展させていく事例(ニカラグア手話の形成過程などが念頭に置かれている)も、言語の生得的な基盤を示す証拠として取り上げられる。

言語と脳の生物学的基盤

本書終盤では、脳の特定領域(ブローカ野やウェルニッケ野)の損傷によって、発話の生成能力と理解能力が選択的に損なわれる失語症の症例、および特定の家系に見られる遺伝性の言語障害(いわゆるKE家系の事例)などを通じて、言語能力が脳内に局在化した生物学的な基盤を持つことが論じられる。

「言語指南役たち」の章と言語純粋主義への反論

下巻第5章「言語指南役たち―規範的ルールの誤り」では、新聞のコラムニストや自称「言葉の専門家」が説く「正しい英語」の規範(文末に前置詞を置いてはならない、「between you and I」ではなく「between you and me」が正しい、といった規則)の多くが、実際には歴史的な言語変化の一断面を恣意的に切り取ったものに過ぎず、言語学的に見て体系的な誤りとは言えないことを、具体的な用例を挙げながら論じる。俗に「言葉の乱れ」として批判される言語変化(新語の使用や文法規則からの逸脱とされる表現)の多くも、実際には言語学的に見て体系的で合理的な規則性を備えていることが指摘される。

具体例

  • ニカラグアの聾学校に集められた子供たちが、大人から教えられることなく、世代を経るごとに文法構造を洗練させながら独自の手話言語を作り上げていった事例。
  • ハワイなどのプランテーションで、異なる母語を持つ移民労働者たちが話す文法の乏しいピジン英語を、その子供たちが一世代で完全な文法を備えたクレオール語(ハワイ・クレオール英語)へと発展させた事例。
  • 脳卒中によりブローカ野が損傷した患者が、単語は理解できても文法的に整った文を組み立てられなくなる「ブローカ失語症」の症例。
  • 特定の家系に代々見られる、文法規則の習得に選択的な困難を示す遺伝性の言語障害の症例研究。
  • チンパンジーのワショーやニム・チンプスキーを対象とした手話・記号を用いた言語習得実験と、それが人間の言語能力とは質的に異なるとされる限界。
  • 心理言語学者ジーン・バーコ・グリーソンによる「ワグ・テスト」——存在しない単語"wug"に子供が複数形の文法規則を自発的に適用した実験。
  • 「二重否定は誤りである」といった規範文法上のルールが、実際には多くの言語で体系的に用いられている合理的な文法規則であるという指摘。

実践への応用

本書は基礎科学の解説書だが、いくつかの応用的な視座を含む。第一に、子供の言語習得が特別な訓練を必要としない生得的なプロセスであるという知見は、幼児教育や第二言語教育のあり方、特に「間違いを恐れず自然な言語環境に触れさせることの重要性」を考える上での理論的な裏付けとなる。第二に、規範文法への批判は、コミュニケーションやライティングの指導において、「正しい言葉遣い」への過度なこだわりよりも、意味の伝達という言語の本来の機能を重視する視点を提供する。第三に、言語障害や失語症に関する知見は、言語聴覚療法や特別支援教育の現場において、症状の背後にある認知的なメカニズムを理解する助けとなる。

位置づけ・評価

本書は、専門的な言語学の理論を一般読者にも理解できる形で紹介した科学啓蒙書として高い評価を受け、ピンカーの代表作の一つに数えられている。生成文法・普遍文法という当時のチョムスキー派言語学の立場を一般に広めた功績が大きい一方、言語相対論(サピア=ウォーフ仮説)を強く退ける本書の立場に対しては、後にガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』などが、言語が思考に与える影響を再評価する形で応答している。言語学者ジェフリー・サンプソンは著書『The "Language Instinct" Debate』の中で、そもそも「言語本能」なるものは存在しないと本書の中心的主張そのものに異議を唱えており、生得主義的な言語観をめぐる論争は刊行から30年以上を経た現在も続いている。それでもなお、言語の生得性・進化的起源をめぐる議論の出発点として頻繁に参照される、進化心理学・言語学分野の代表的な入門書としての地位を保っている。