3行でいうと
- 本書は、運動で増えるBDNFが神経細胞の成長を助けると述べる。
- 有酸素運動と学習、ストレス、不安、うつ、加齢との関わりを論じる。
- 運動を学習の前に行うと、記憶の定着が高まるという研究を紹介する。
- 依存症やホルモンの変化に対しても、補助的な役割を示唆する。
向いている人
運動と脳や心の関係に関心のある人、教育や健康に関わる人に向きます。予備知識なしで読めます。
読む意味
運動を体力づくりだけでなく、学習や心の健康の手段として捉え直す視点を知ることができます。教育現場の体育の議論でも引かれる実例が得られます。
読むときの注意
書評サイトの整理によれば、ネーパーヴィルの事例は裕福な地域で、運動と成績の関係を因果とは断定しにくく、仕組みの解明の多くが動物実験に由来し、ヒトへの当てはめには飛躍が残ります。運動研究では参加者の約半数が脱落するとも指摘されます。本書の主張は、科学的な議論の途上にあるものとして受け止める必要があります。
どんな本か
精神科医の著者が、運動は体を鍛えるだけでなく、脳そのものの働きを直接高めるという研究を、多くの事例とともに紹介した本です。本書は、学習能力の向上、ストレスや不安やうつの緩和、加齢による認知機能の低下の予防、依存症の克服まで、運動が脳に与える広い影響を扱います。
しくみの中心にあるのが、運動で分泌が促される脳由来神経栄養因子(BDNF)です。著者はこれを、植物の肥料になぞらえて脳の「ミラクル・グロ」と呼び、新しい神経細胞の生成や既存の細胞の維持を助けると述べます。運動は神経伝達物質のバランスを整える点で、抗うつ薬や興奮剤に近い状態を脳にもたらす、というたとえも使われます。有酸素運動はBDNFなどの成長因子を増やし、新しい血管の形成にも関わるとされます。
具体例として、イリノイ州の高校で始まった「ゼロ時限体育」が紹介されます。読み書きに課題のある生徒が、始業前に高い心拍数の運動をしてから読解の授業を受けると、学期末の読解力が通常の体育を受けた生徒より伸びたという報告です。うつについては、運動が抗うつ薬と同等かそれ以上の効果を示した研究例が引かれます。実践面では、汗ばむ程度の運動を30分から1時間ほど続けることが目安として示されます。各章は特定の悩みを抱えた人物の話から入り、研究データへと進む形式です。
中身の柱
- 運動と脳の基礎。BDNFなどの成長因子のはたらき。
- 学習と運動。運動直後の学習と、海馬の神経新生。
- ストレス、不安、うつなど、心の不調への運動の効果。
- ホルモンの変化、加齢、依存症と運動。
- 具体的な運動の目安と、ゼロ時限体育の実例。
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概要
コルゲート大学で哲学の学士号を、ペンシルベニア大学医学部で医学博士号を取得し、ハーバード大学医学部で精神医学の准臨床教授を務め、「Best Doctors in America」に選出され続けている(選出開始年は、NHK出版のPR資料では1986年、J-CASTでは1998年と記され、情報源により食い違う)精神科医である著者ジョン・J・レイティが、共著『Driven to Distraction』シリーズ(累計200万部以上)で知られる立場から、運動が単に身体を鍛えるだけでなく、脳そのものの働きを直接的に高めるという科学的知見を、豊富な研究事例とともに解説した一冊。学習能力の向上からストレス・不安・うつの緩和、加齢に伴う認知機能の低下予防、依存症の克服まで、運動が脳に及ぼす広範な効果を扱っている。運動によって得られる神経伝達物質の変化を、著者は「運動はセロトニン・ノルアドレナリン・ドーパミンを同時に調整する、抗うつ薬や興奮剤を服用したときに近い状態を脳につくり出す」とたとえて説明している点が特徴的である。
本の構成
運動と脳の関係を支える基礎的な生理学(BDNFなどの神経科学的メカニズム)の説明から始まり、学習・ストレス・不安・うつ・ホルモンバランス(女性特有の課題を含む)・加齢・依存症といったテーマごとに、それぞれに対する運動の効果を章立てて解説する構成になっている。各章は特定の疾患や課題を抱えた人物のエピソードから始まり、そのケースを支える神経科学的な研究データへと展開していく形式が取られている。
原書の10章は、第1章「革命へようこそ」、第2章「学習」、第3章「ストレス」、第4章「不安」、第5章「うつ」、第6章「注意欠陥」、第7章「依存症」、第8章「ホルモンの変化」、第9章「加齢」、第10章「処方(運動の実践)」である(原書の章題を便宜的に訳したもの)。NHK出版の資料も、学習、ストレス、不安、うつ、注意障害、依存症、ホルモン、加齢、そして運動の原則という10章構成として紹介している。日本語版は2009年3月25日にNHK出版から刊行された、352ページ・定価2,310円(税込)の単行本で、野中香方子が翻訳を担当した。著者はレイティとエリック・ヘイガーマンの2名で、日本語版もこの共著として刊行されている。
主要な内容(詳述)
- BDNF(脳由来神経栄養因子): 運動によって脳内で分泌が促進されるこの物質が、脳細胞の栄養となり、新しい神経細胞の生成や既存の神経細胞の維持・成長を助けるとし、運動が脳の構造そのものを変化させる仕組みの中心に位置づけられる。著者はBDNFを植物の生育を助ける肥料になぞらえて「脳のミラクル・グロ(Miracle-Gro)」と呼び、運動によって血流とともに脳へ供給される点を強調する。
- 有酸素運動の効果: 早歩きやランニング、サイクリング、水泳といった中程度の負荷を一定時間継続する有酸素運動が、無酸素運動よりもBDNFの分泌や心肺機能の向上に効果的であるとする。あわせてIGF-1(インスリン様成長因子)やVEGF(血管内皮増殖因子)といった成長因子も運動によって増加し、新しい血管の形成や神経細胞の保護を助けるとされる。
- 学習能力への効果: 運動によって脳が新しい情報を受け入れやすい状態(神経の可塑性が高まった状態)になるとし、運動直後に学習を行うことで記憶の定着率が高まるという研究結果を紹介する。また海馬における神経新生(新しい神経細胞が生まれる現象)が運動によって促進されることを示した動物実験にも触れ、記憶を司る脳部位そのものが運動によって物理的に成長しうることを説明する。
- メンタルヘルスへの効果: ストレス・不安・うつといった精神的な不調に対しても、運動が薬物治療に匹敵するかそれ以上の効果を示す研究例があるとし、脳内の神経伝達物質のバランスを整える運動の役割を説明する。運動は慢性的なストレスによって過剰に分泌されるコルチゾールの調節にも役立ち、扁桃体の過敏な反応を鎮める効果があるとされる。
- 女性特有の課題と加齢: 月経前症候群(PMS)や更年期に伴う気分の落ち込み、ホルモンバランスの変化に対しても、定期的な運動が症状の緩和に役立つ研究例を紹介する。また加齢による認知機能の低下や神経変性疾患のリスクについても、有酸素運動を習慣的に行っている高齢者は脳の萎縮が緩やかであるとする研究結果を取り上げる。
- 依存症とドーパミン: 薬物やアルコールへの依存が脳の報酬系(ドーパミン系)の乱れによって生じることを踏まえ、運動が同じ報酬系を健全な形で刺激することで、依存からの回復を助ける補助的な手段になりうるという視点を提示する。
- 具体的な運動条件: 心拍数が上がり汗ばむ程度の運動を、1回あたり30分から1時間前後の長さで継続することを目安として提示する(頻度については、要約サイトSoBriefが中程度の日と高強度の日を合わせて週6日程度と整理している)。ウォーキングのような軽い有酸素運動に加え、短時間で心拍数を大きく上げる高強度のインターバルトレーニングを組み合わせることで、より大きな脳への効果が期待できるともしている。
具体的な研究データも補足する。学習については、原書は、ドイツの研究者による実験で、運動の後には語彙の学習が約20%速くなり、その差がBDNFの値と相関したと紹介する(要約サイトSoBriefによれば、走行中の2回の3分間の全力走を挟んだ条件でこの効果が出たとされる)。うつについては、デューク大学の研究で運動がセルトラリン(ゾロフト)より効果的だったという結果を引いている。J-CASTの紹介記事は、これを2000年のデューク大学の研究と記している。また、運動で脳の神経成長因子が約35%増えるという表現がNHK出版の資料に見られるが、これは本の特徴を宣伝文として要約したもので、研究条件の細部まで確認できたわけではない。
運動の処方については、原書は、学齢期の子どもには、2004年の専門家パネルによる850以上の研究のレビューに基づき、1日1時間以上の中程度から強度の高い運動を勧めるとされる。また、単調な運動だけでなく、3対3のバスケットボールや4対4のサッカーのような少人数のスポーツ、カヤックやクライミング、ダンスのような複雑な動きを含む活動も推奨される。心拍数のゾーン別の整理は、要約サイトSoBriefによれば、ウォーキングが最大心拍数の55〜65%、ジョギングが65〜75%、走る・全力走が75〜90%で、成長ホルモンの分泌と結びつけられている。
具体例
シカゴ近郊イリノイ州の学区で始まった「ゼロ時限体育」の取り組みが、アメリカ・イリノイ州のネーパーヴィル・セントラル高校での実践例として代表的な事例に紹介されている。同学区の8年生はTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)で理科がシンガポールを上回り、数学でも世界6位相当の成績を収めたことでも知られる。読み書きに課題を抱える生徒を対象に、始業前に最大心拍数の80〜90%を保つ運動を行わせてから読解の授業を受けさせたところ、学期末の読解・理解力は17%向上し、通常の体育を受けた生徒(10.7%向上)を上回ったという結果が報告されている(原書の該当箇所を紹介した資料による)。同校ではこの取り組みを学区全体の体育カリキュラムに拡大し、生徒の学力・体力の両面で成果が見られたとされる。このほか、有酸素運動を続けたラットの脳で神経新生が促進されたという動物実験や、定期的な運動習慣を持つ高齢者の認知症発症率が低いという疫学研究なども、運動と学習・脳機能の関係を示す事例として言及される。
実践への応用
学習や仕事の前に軽い有酸素運動を取り入れて脳を活性化させること、ストレスや気分の落ち込みを感じたときに運動を対処法の選択肢として取り入れること、汗ばむ程度の有酸素運動を、無理のない頻度から継続的な習慣にすることなどが、実践への応用として挙げられる。さらに、単調な有酸素運動だけでなく短時間の高強度運動を組み合わせること、朝の時間帯に運動を行って一日の集中力を高めること、依存症やホルモンバランスの乱れに悩む場合にも治療の補助として運動を取り入れる余地があることなど、対象や目的に応じて運動の種類やタイミングを調整する視点も示されている。
位置づけ・評価
運動と脳科学の関係を一般向けに広めた代表的な著作として、健康・教育・メンタルヘルスなど幅広い分野で参照される一冊として位置づけられている。ネーパーヴィルの事例は後の教育現場における体育カリキュラム改革の議論でもたびたび引用されており、運動を単なる体力づくりではなく学力向上や精神衛生の手段として捉え直す視点を広めた点で、教育・健康分野の双方に影響を与えた書籍と評価されている。
日本では、NHK出版の資料によれば15万部を超えるベストセラーとなり、2023年10月にも新デザインの帯で増刷されたロングセラーである(NHK出版のPR資料とJ-CASTによる)。ただし、読む際に押さえておきたい留保もある。要約サイトSoBriefの分析は、ネーパーヴィルの事例について、裕福で教育水準の高い親が多い地域であるため、運動と成績の関係を因果とは断定しにくいこと、機構の解明の多くがラットなど動物実験に由来するため、ヒトへの当てはめには飛躍が残ること、運動研究の参加者の約半数が途中で脱落すること、うつなどで薬を使わずに回復した症例を一般化できないことを注意点として挙げている。ここに挙げた留保は書評サイトによる整理であり、原著者自身の記述とは区別して受け止める必要がある。著者のレイティはエドワード・ハロウェルとの共著『Driven to Distraction』などでも知られ、英語版Wikipediaによれば、2001年に脳を「使わなければ衰える柔軟な筋肉」と描いた『A User's Guide to the Brain』、2014年にリチャード・マニングとの共著『Go Wild』も出している。