3行でいうと
- 脳は大人になって固定されず、経験や訓練で構造そのものを変える。
- 平衡感覚の喪失や脳卒中、慢性の痛みなどでの回復事例が示される。
- 同時に発火する神経細胞は結びつき、使わない回路は衰える。
- 発見した研究者たちの物語と、患者の人生が並べて描かれる。
向いている人
リハビリや教育、支援の仕事に関わる人、脳が変わりうるという話に関心のある人に向きます。予備知識なしで読めます。
読む意味
脳が固定されたものではないという見方を、人の物語として理解できます。回復の可能性についての考え方を広げる材料になります。
読むときの注意
書評は、ニューヨーク・タイムズが大きく評価した一方、カーカス・レビュー誌は「やや散漫」と評したと伝えます。症例の逸話に頼る書き方への懐疑もあり、回復事例の感動と、どこまで再現できるかは切り分けて読む必要があります。
どんな本か
精神科医で精神分析家の著者が、脳は生涯にわたって構造を変え続けるという「神経可塑性」の考え方を、研究者と患者への取材にもとづく症例を通じて一般向けに紹介した本です。「成人の脳は固定され変化しない」という従来の常識に対し、その見方がどう覆されていったかから話が始まります。
続いて、学習障害、脳卒中、慢性の痛みなどを抱える人々が、脳を再訓練する方法で症状をやわらげた事例が章ごとに描かれます。内耳の平衡器官を失った女性は、頭の傾きを舌への刺激に置き換える装置で、バランスを保てるようになったと紹介されます。「知的障害」とみなされていた女性は、自分で認知の訓練を作り、学習に困難のある子ども向けの学校を設立するに至ります。ほかにも、健常な腕を拘束して麻痺した腕を使わせるリハビリ、幻肢痛を鏡で和らげるミラーボックス、脳の半分が欠けたまま暮らす女性の例が取り上げられます。
終盤では、恋愛や性的な惹かれ方、文化の影響、子どもの発達、加齢と脳の変化など、可塑性という一つの原理を人生の広い場面に当てはめていきます。リハビリや学習支援に関わる人にとっては、回復の可能性を見直す視点を与える本として位置づけられています。
中身の柱
- 神経可塑性の発見と、従来の常識が覆された経緯。
- 感覚の代行装置や学習障害の自己克服など、脳の再訓練の事例。
- 脳卒中のリハビリ、強迫的な思考、慢性の痛みの事例。
- 想像力、精神分析、神経幹細胞など、可塑性の広がり。
- 脳の半分が欠けた女性の例が示す、可塑性の徹底ぶり。
あわせて読む本
- 妻を帽子とまちがえた男脳の損傷と人間を描く、臨床エッセイの古典
- 脳を鍛えるには運動しかない!脳が経験で変わるという見方を運動から述べる
- 海馬 脳は疲れない脳は歳をとっても成長するという話を対談で語る
書評データベースの全文を読む
概要
『脳は奇跡を起こす』は、カナダの精神科医・精神分析家であるノーマン・ドイジ(Norman Doidge)が、脳は生涯にわたって構造を変化させ続けるという「神経可塑性(neuroplasticity)」の考え方を、研究者や患者への取材に基づく具体的な症例を通じて一般読者向けに紹介した一冊である。原題は『The Brain That Changes Itself』で、2007年に米国で出版された。日本語版は講談社インターナショナルから2008年2月に刊行され、竹迫仁子が翻訳を担当した。国立国会図書館サーチと紀伊國屋書店のウェブストアの書誌では、B6判・325ページ、価格1,800円と記載されている。
本の構成
本書は、脳は成人期に達すると固定され変化しないとする従来の常識に対し、神経可塑性という新しい考え方がどのように発見され受け入れられていったかを紹介することから始まる。続いて、学習障害や脳卒中、慢性疼痛などを抱える患者たちが、脳を再訓練する具体的な手法によって症状を改善させていった事例が章ごとに描かれ、さらに神経可塑性研究の先駆者となった科学者たちの物語へと話題が展開する。終盤では、恋愛や性的な惹かれ方に脳の可塑性がどう関わるか、文化的な環境が脳の配線に与える影響、子どもの発達期における可塑性の役割、そして加齢に伴う脳の変化とその対処法までを扱い、神経可塑性という一つの原理を人生の幅広い局面に当てはめていく構成になっている。
英語版(原書)の目次は全11章で、章題を訳すと次のようになる。第1章「ひっきりなしに倒れる女性と、感覚の可塑性を発見した男」、第2章「自らの脳を作り直す――『知的障害』と呼ばれた女性が自分を治す方法を見いだす」、第3章「脳を設計し直す――知覚・記憶・思考の速さを高め、学習の問題を治す科学者」、第4章「嗜好と愛を獲得する――性的魅力と愛について神経可塑性が教えること」、第5章「真夜中の復活――脳卒中患者が再び動き、話せるようになる」、第6章「脳のロックを解く――心配・強迫観念・強迫行為・悪習を止める」、第7章「痛み――可塑性の暗い側面」、第8章「想像力――考えることがそのまま現実になる」、第9章「幽霊を祖先に変える――神経可塑的な治療としての精神分析」、第10章「若返り――神経幹細胞の発見と脳を保つための教訓」、第11章「部分の総和以上のもの――脳の可塑性がどこまで徹底しているかを示す女性」である(以上は英語版Wikipediaによる)。なお、紀伊國屋書店のウェブストアに表示されている邦訳の目次は10項目で、原書第10章に当たる神経幹細胞の章が見当たらない。邦訳が抄訳である可能性もあるが、同ページの目次表示は要約的で、確定的な根拠とは言えない。
主要な内容(詳述)
著者のノーマン・ドイジは、トロント大学で古典文学と哲学を優秀な成績で修めた後、19歳で詩の賞を受賞し文芸評論家ノースロップ・フライに才能を認められた経歴を持つ人物である。その後トロント大学で医学の学位を取得し、コロンビア大学精神医学部で精神科のレジデンシーと精神分析の資格を修めた。トロント大学精神医学部とコロンビア大学精神分析研究センターで30年にわたり教員を務め、現在はトロント精神分析研究所の訓練・指導分析家を務めている。170本以上の学術論文・科学論文を執筆しており、神経可塑性と精神分析研究への貢献により2008年にメアリー・S・シゴーニー賞を受賞した。
本書の中心的な主張は、脳が経験や訓練によって物理的な構造そのものを変化させる能力を持つという神経可塑性の考え方が、学習障害の克服から脳卒中後のリハビリテーション、慢性疼痛の緩和に至るまで、これまで不可能と考えられてきた回復を可能にするというものである。著者は、こうした脳の変化を証明した研究者たちの発見の過程を丁寧に追いながら、実際にその手法によって人生を変えた患者たちの具体的な物語を通じて、神経可塑性の実践的な意味を描き出している。
各章の主役を順に見ると、本書の論じ方がよく分かる。第1章の患者チェリル・シルツは、前庭器官(平衡感覚を担う内耳の器官)の機能を失い、常に倒れそうな感覚に苦しんでいた。ポール・バッハ・イ・リタの研究チームは、加速度センサーを内蔵したヘルメット状の装置で頭の傾きを検知し、その情報を舌の上の電極(舌ディスプレイ)に伝える「感覚代行」の装置を開発した。脳は舌からの刺激を平衡感覚の情報として使い始め、チェリルは装置を外した後もしばらくバランスを保てるようになったと、書評(ジェーン・ホール、米国心理学会系の会報)は伝えている。バッハ・イ・リタ自身の父ペドロが65歳で重い脳卒中に倒れ、息子の一人ジョージらの根気強い訓練(這う動作など)で回復し、その後7年間活動的に暮らして登山中に亡くなったという逸話も、同じ書評が紹介する第5章の内容である。
第3章のマイケル・マーゼニックは、「同時に発火するニューロンは結びつく」という原理や、使わない回路は衰えるという「使わなければ失う」原則を実験で示した研究者で、言語に問題を抱える子どものための訓練ソフト「Fast ForWord」を開発したとされる。第5章のエドワード・タウブは、感覚入力を断ったサルの実験から「学習された不使用」という考え方を導き、健常な腕を拘束して麻痺した腕を使わせる拘束誘導運動療法(CI療法)を発展させた。第7章では、V・S・ラマチャンドランが幻肢痛の患者フィリップに「ミラーボックス」を使い、鏡に映した健常な腕の像を見せることで、脳の地図を書き換えて痛みを和らげた。また第11章では、生まれつき脳の半分が欠けたまま、残りの半球が失われた側の働きを引き受けて暮らす女性ミシェルが取り上げられている。
具体例
本書で紹介される代表的な事例が、第2章で取り上げられる、幼少期に学習能力の複数の分野に重い障害を抱え「知的障害」とみなされていたバーバラ・アロースミス・ヤングが、自ら脳を再訓練する認知エクササイズを開発し、成人後にその障害を克服して学習困難を抱える子どものための学校を設立するに至った経緯である。著者は、脳卒中で麻痺した身体機能や言語能力を、集中的な反復訓練によって取り戻していった患者たちの事例や、慢性疼痛を抱える患者が神経回路の再訓練エクササイズによって痛みの感覚そのものを軽減させていった事例も紹介しており、脳の可塑性が医学的な治療の新たな可能性を切り開く様子を具体的に描いている。
事例の振れ幅の大きさも本書の特徴である。平衡感覚の喪失、「知的障害」と見なされた学習障害、脳卒中後の麻痺、強迫的な思考、幻肢痛、脳の半分の欠損といった、いずれも「固定された脳」という前提では説明しにくい症例が、一冊の中で連続して提示される。バーバラ・アロースミス・ヤングの場合、自分の弱点を補う訓練を自作して実践し、後にアロースミス・スクールを設立したという経緯が、複数の紹介記事で共通して語られている。
実践への応用
本書で示される神経可塑性の考え方は、脳卒中や外傷性脳損傷からのリハビリテーションに携わる医療従事者にとって、患者の回復可能性を再評価するための実践的な視点を提供する。また、学習障害を抱える子どもの教育や、慢性疼痛の管理に取り組む専門家にとっても、脳の再訓練という手法を検討する際の具体的な手がかりとなる。
位置づけ・評価
本書はニューヨーク・タイムズ紙から「常識を覆す、奇跡を起こすような」内容であると評された一方、カーカス・レビュー誌からは「やや散漫」であるとの評価も受けており、評価が分かれる部分もあった。また、著者自身が精神分析家であることから、国際精神分析ジャーナルには、神経科学の知見が精神分析という営みにとってどこまで意義を持つのかを問う批判的な応答論文も掲載されており、脳科学と精神分析という二つの分野の接点をめぐる議論を呼んだ側面もある。本書は国際的なベストセラーとなり、著者は続編として2015年に『The Brain's Way of Healing』(邦題『脳はいかに治癒をもたらすか』)を発表し、こちらもニューヨーク・タイムズのベストセラーとなった。日本語版の刊行以降も、神経可塑性という概念を一般読者に広めた代表的な一冊として、教育やリハビリテーションに関わる分野で繰り返し参照され続けている。
書評の評価の幅を具体的に見ると、ニューヨーク・タイムズ(2007年5月29日付、アビゲイル・ズガー評)は「頭がくらくらするような、奇跡を起こし、現実の常識を打ち砕く内容」と概ね肯定的に評し、カーカス・レビュー誌は「やや散漫(somewhat scattershot)」としつつも、語りの巧みさと題材への熱意を評価した。米国心理学会系の会報でジェーン・ホールは、神経可塑性を人類史上の大きな飛躍と位置づけて称賛している。一方、2013年の『国際精神分析ジャーナル』ではカーメリ・ズヴィとラシェル・ブラスが、神経科学は精神分析の研究には無関係だと論じている。
著者の公式サイトは、原書が100か国以上・27言語で刊行されたと述べている(自己申告である点に留意が必要)。また、英語版Wikipediaによれば、2010年にダナ財団の雑誌『Cerebrum』が本書を「脳に関する最良の一般書」に選んでいる。ただし、著者の続編『The Brain's Way of Healing』(2015年)については、エール大学のダイアナ・ディヴェチャが「実証されていない神経可塑性の考え方」を広めていると批判しており、症例の逸話に依拠する書き方への懐疑は著者の著作全般について付きまとう。なお、本書の続編の邦題は『脳の治癒力』ではなく、高橋洋訳『脳はいかに治癒をもたらすか』である(紀伊國屋書店の書誌による)。読む際には、紹介される回復事例の感動と、それが一般にどこまで再現できるかという問いを切り分けて読むのが望ましい。