3行でいうと
- 人間の意識には、計算(アルゴリズム)では捉えられない過程が関わるという主張
- ゲーデルの不完全性定理を使い、人間の直観は計算を超えると論じる
- 心の理解には、いまの物理学に欠ける量子重力の洞察が要ると予想する
向いている人
AIと意識の関係を、物理学と数学の側から考えてみたい人。時間をかけて分厚い議論を追える人。
読む意味
「機械は考えられるか」という問いに対する代表的な反対論を、一次の議論として読める。AIの可能性や限界を考えるときの重要な論点が得られる。
読むときの注意
ペンローズ=ルーカスの議論は、論理学者の間では誤りだとする見方が広く、弱点の位置については意見が分かれる。本書の結論に納得するかどうかは別として、論点の整理として読むのが無難である。
どんな本か
この本は、「コンピュータは心をもちうるか」という問いに、数理物理学者のロジャー・ペンローズが否定的に答えた本である。ペンローズはオックスフォード大学の数学教授を務め、ブラックホールの形成に関する研究で知られる。1980年代に人工知能の研究者が楽観的な見方を語るのを見て、批判的な応答を書く必要を感じたことが執筆のきっかけだったと本人が語っている。
主張の核心は、人間の意識には非アルゴリズム的、つまり手順に落とせない過程が関わるという点である。著者はゲーデルの不完全性定理を引き、どんな形式的な体系にも、その中では証明も反証もできない命題がある一方、人間の数学者は真偽を直観的に見て取れると論じる。これは「ペンローズ=ルーカスの議論」として知られ、数学者、哲学者、AI研究者から多くの批判を受けてきた。
議論の組み立ては長い。チューリングマシンと計算可能性、数学と実在、古典物理、量子力学、宇宙論と時間の矢、量子重力と進み、最後に脳と心に戻る。物理学・数学・計算機科学・神経科学を横断して、一つの問いに迫る構成である。著者自身も、意識に関する考えは推測的だと述べている。
中身の柱
- 第1〜4章:コンピュータと心、アルゴリズムとチューリング機械、数学的真理と洞察
- 第5・6章:古典的世界と、量子論の不思議
- 第7・8章:宇宙論と時間の矢、量子重力を求めて
- 第9・10章:実際の脳とモデル脳、心の物理学はどこにあるのか
- 全体:意識は計算に還元できず、非計算的な過程が関わるという仮説
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概要
『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』は、数理物理学者ロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)が、人間の意識は既知の物理法則やコンピュータのアルゴリズムだけでは説明できないと論じた一冊である。原題は『The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds, and the Laws of Physics』で、オックスフォード大学出版局から1989年11月8日に刊行された(英語版Wikipediaによれば480頁)。日本語版はみすず書房から、林一の翻訳で1994年12月19日に刊行された。A5判、定価は本体7,400円(税込8,140円)、ISBN は978-4-622-04096-5で、頁数はみすず書房の書誌が560頁、紀伊國屋書店の書誌が536頁と記している。みすず書房の書誌では現在は品切である。
みすず書房の内容紹介は、人工知能がコンピュータで実現できるかという問題について、オクスフォード大学の数学教授であるペンローズが、人間の心の動きは「すでに存在するいかなるコンピュータともまったく異なっている」と主張する本としている。さらに、現在の物理学には量子重力論という基本的な洞察が欠けており、それなしでは心を理解することも、物理学の究極の統一理論を得ることもできないと論じている、と紹介している。
本の構成
本書は、コンピュータの計算可能性やチューリングマシンの原理を解説することから始まり、量子力学の諸解釈、一般相対性理論と時空の構造、意識と脳の関係へと議論を展開していく構成になっている。物理学・数学・計算機科学・神経科学という複数の専門分野を横断しながら、意識の本質という一つの問いに迫っていく点が特徴である。
みすず書房と紀伊國屋書店の書誌で確認できた章立ては、次の10章である。
- 第1章 コンピュータは心をもちうるか?
- 第2章 アルゴリズムとテューリング機械
- 第3章 数学と実在
- 第4章 真理、証明と洞察
- 第5章 古典的世界
- 第6章 量子マジックと量子ミステリー
- 第7章 宇宙論と時間の矢
- 第8章 量子重力を求めて
- 第9章 実際の脳とモデル脳
- 第10章 心の物理学はどこにあるのか?
第2章から第4章が計算とアルゴリズム、数学的真理の話、第5章から第8章が古典物理、量子論、宇宙論、量子重力の話、第9章・第10章が脳と心の話にあたり、題名から、物理学の基礎を一通りたどったうえで脳に戻る順序になっていることがわかる。
主要な内容
著者のロジャー・ペンローズは、1931年8月8日にエセックス州コルチェスターで生まれ、1952年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドンを卒業し、ケンブリッジ大学で1957年に代数幾何学の博士号を取得した人物である。1972年に王立協会フェローとなり、1973年からオクスフォード大学のラウズ・ボール記念数学教授を務め、1994年にナイトの称号を受けた。受賞は、1966年のアダムズ賞、1975年のエディントン・メダル、1988年のウルフ賞(ホーキングと共同)、2000年のメリット勲章、2008年のコプリ・メダルなど多数に及ぶ。
1965年1月、ペンローズは、重力崩壊によってブラックホールが実際に形成されうることを数学的に証明した。論文は『Gravitational collapse and space-time singularities』(Physical Review Letters 14巻57頁)で、これが特異点定理の出発点となった。英語版Wikipediaによれば、ホーキングの特異点定理はペンローズの定理にもとづいている。2020年のノーベル物理学賞は、「ブラックホールの形成が一般相対性理論の確固たる予言であることの発見」により、賞金1,000万スウェーデンクローナの半分がペンローズに授与された。ノーベル賞を授与したスウェーデン王立科学アカデミーは、この業績を、アインシュタイン以来の一般相対性理論への最も重要な貢献と評している。1974年には五回対称性を持つ非周期的なタイル張り「ペンローズ・タイル」を発見し、これは後の1984年に発見される準結晶の存在を先取りするものとなった。
本書の中心的な主張は、既知の物理法則だけでは意識という現象を説明することはできず、意識には非アルゴリズム的な過程が関わっているというものである。著者は、ゲーデルの不完全性定理を援用しながら、人間の思考がアルゴリズムによる計算の枠組みを超えるものであると論じ、コンピュータが真の知性を獲得することはできないという立場を示している。英語版Wikipediaは、ペンローズがチューリングの停止問題に似た論法を使い、システムは決定論的であってもアルゴリズム的でない場合があることを示そうとしたと説明している。
具体例
本書で紹介される代表的な議論が、数学者が数学的な真理を「見て取る」際の直観的な理解の働きである。著者は、ゲーデルの不完全性定理が示すように、いかなる形式的な公理体系にもその体系内では証明も反証もできない命題が存在するにもかかわらず、人間の数学者はそうした命題の真偽をアルゴリズムに頼らずに直観的に把握できると論じ、この能力がコンピュータのアルゴリズム的な処理とは本質的に異なるものであると主張している。この議論は「ペンローズ=ルーカスの議論」として知られ、後に人工知能研究者や哲学者から数多くの反論を招くことになった。
本書が書かれた事情について、ペンローズ自身は、新潮社の「考える人」に載った茂木健一郎との対談(「ペンローズへの巡礼」)で語っている。要約すると、BBCの番組で、マーヴィン・ミンスキーら人工知能の研究者が人工知能に楽観的な見方を述べるのを見て、すぐに批判的な応答を書く必要を感じたのだという。控えめな反響を予想していたが、実際には大きな関心を集め、人工知能研究者からは激しい批判を受けた。同対談でペンローズは、意識は思考の計算に還元できず、非計算的な過程が関わると述べ、脳内で色・形・動きを別々の領域が処理しながら一つの知覚に「結びつく」問題(結びつけ問題)にも触れ、神経活動の同期だけではなぜ結びつくのかを説明できないと論じている。さらに、変容した量子力学が量子重力の仕組みを通じて意識の生成に本質的に関わると予想している。
実践への応用
本書で提示される、意識を単なる情報処理として捉えることへの懐疑的な視点は、人工知能の可能性や限界を考える上での重要な論点を提供する。また、複数の専門分野を横断しながら一つの根源的な問いに迫るという著者の姿勢は、専門分化が進んだ現代の科学において学際的な思考を実践する上での一つの手本となる。
ペンローズの日本語訳の著書には、本書のほかに、『ホーキングとペンローズが語る時空の本質』(みすず書房、1997年)、『心は量子で語れるか』(講談社、1998年)、『時間とは何か、空間とは何か』(岩波書店、2013年)、『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』(新潮社、2014年)がある。
位置づけ・評価
本書は英国王立協会科学図書賞(1990年)を受賞するなど高い評価を受けた一方で、意識の非計算可能性をめぐる著者の議論(いわゆるペンローズ=ルーカスの議論)は、数学者・哲学者・人工知能研究者から根本的な欠陥があるとする批判を多く受けてきた。英語版Wikipediaは、論理学者の間ではこの議論は誤りだとする見方が広く、どこが弱点かについては意見が分かれると記している。
著者は本書の続編にあたる『心の影』(Shadows of the Mind, 1994年)でも同様の主張を展開した。日本語版は、みすず書房から2001〜02年に出て、2016年に新版が出ている。英語版Wikipediaによれば、ペンローズは麻酔科医スチュアート・ハメロフと協力して、意識は微小管での量子重力の効果から生じるという「Orch-OR」(調整された客観的収縮)説を提案した。これに対し、物理学者マックス・テグマークは、脳内の神経のデコヒーレンスは微小管の量子効果よりも数十億倍速く起こると計算し、この仮説に疑問を投げかけた。みすず書房の書誌には、茂木健一郎(脳科学者)による本書の書評が2009年11月8日の読売新聞に掲載されたことも記されている。本書は物理学と意識論を架橋しようとした野心的な試みとして、賛否両論を伴いながらも広く読まれ続けている。