3行でいうと
- 遺伝子は、少数の要素の並びで情報を運ぶ「非周期性結晶」ではないかと考える
- 生物は環境から「負のエントロピー」を取り込み、自分の秩序を保っている
- 遺伝子の小さな構造が正確な遺伝を生む点に、物理学者として逆説を見る
向いている人
生命科学の歴史や、物理学と生物学の接点に関心のある人。少し科学の前提があるとよい。
読む意味
分子生物学が生まれる前の時代に、物理学者が生命をどう問い直したかが分かる。ワトソンとクリックを含む多くの研究者に影響を与えた古典として読める。
読むときの注意
DNAの構造などは執筆時点で未発見で、生物学の知識としては古い部分がある。遺伝物質の性質は以前から指摘されていたとして、独創性を過大に評価すべきでないとする見方もある。
どんな本か
1943年にダブリンで行われた連続講演をもとに、1944年に出た本である。量子力学で知られる物理学者の著者が、生物学の外から「生きた細胞の中で起きていることを、物理学と化学でどこまで説明できるか」と問う。遺伝、突然変異、秩序の維持といった生命現象を、統計力学と量子力学の考え方で読み解こうとする試みである。
議論は、なぜ原子はこんなに小さいのかという問いから始まる。物理法則が高い精度で成り立つには非常に多くの原子の平均が必要なのに、遺伝子は比較的少ない原子でできていて、世代を超えて正確な規則性を生む。この逆説を解く鍵として、遺伝子を、少数の要素が決まりなく並ぶ「非周期性結晶」と見る考えが示される。モールス信号のように少ない文字の組み合わせで多くの情報を運べる、という発想で、構造がまだ分かっていなかった時代に遺伝暗号のイメージを先取りしたと評価されている。突然変異が稀で飛び飛びに起こる理由も、量子力学の考え方で説明される。
最大の概念的な貢献は「負のエントロピー」である。乱雑さは放っておくと増えるが、生物は環境と物質やエネルギーをやりとりする開放系で、秩序のある食物や太陽光を取り入れ、乱雑な老廃物や熱を出すことで自分の秩序を保つという。巻末では決定論と自由意志にも触れる。
中身の柱
- 第1〜3章:物理学者の問題設定と、当時の遺伝と突然変異の知見
- 第4〜5章:量子力学とデルブリュックのモデルによる遺伝子の物理的な姿
- 第6章:秩序・無秩序・エントロピーと「負のエントロピー」
- 第7章:生命は物理法則に基づくのかという総括
- 補遺:決定論と自由意志についての哲学的な考察
あわせて読む本
- 二重らせん本書に触発された研究者がDNA構造に至る系譜
- 遺伝子―親密なる人類史―遺伝子概念の歩みを通史で追える
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概要
『生命とは何か』は、量子力学の波動方程式で1933年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが、1943年2月にダブリン高等研究所(アイルランド)主催のトリニティ・カレッジ・ダブリンで行った連続講演をもとに、1944年にケンブリッジ大学出版局から刊行した著作である。講演にはアイルランド首相デ・ヴァレラをはじめ毎回400人ほどの聴衆が詰めかけ、大きな反響を呼んだ。本書の中心的な問いは「時空間の中で生きた有機体の内部で起きている出来事を、物理学と化学でどこまで説明できるか」というものであり、生物学の門外漢である物理学者が、遺伝・突然変異・秩序の維持といった生命現象を統計力学と量子力学の言葉で読み解こうと試みた点に最大の特徴がある。当時DNAは細胞核の構成要素として知られてはいたが遺伝物質の本体とは考えられておらず、タンパク質の方が有力候補とされていた時代の著作であることに留意する必要がある。
本の構成
本書は序文および7つの章、そして後年増補された補遺「決定論と自由意志について」から構成される。第1章「古典物理学者のこの主題への接近」で問題設定を行い、第2章「遺伝のメカニズム」、第3章「突然変異」で当時の遺伝学の知見を紹介する。第4章「量子力学的証拠」および第5章「デルブリュックのモデルの考察と検証」では、量子力学に基づいて遺伝子の物理的実体に迫る議論を展開し、第6章「秩序、無秩序、そしてエントロピー」で本書最大の概念的貢献となる「負のエントロピー」を論じる。第7章「生命は物理法則に基づいているか」で議論を総括し、巻末の「決定論と自由意志について」ではヒンドゥー教ヴェーダーンタ哲学の「意識の統一」の思想に触れながら、決定論的な物理法則と人間の自由意志の関係という純粋に哲学的な考察で締めくくられる。
主要な内容(詳述)
議論の出発点は、なぜ原子はこれほど小さく、生物の身体はこれほど多数の原子を必要とするのかという「なぜ原子はそんなに小さいのか」という一見奇妙な問いである。シュレーディンガーは統計力学の「√n則」を用い、物理法則が高い精度で成り立つには非常に多数の原子の集団平均が必要であることを示し、それにもかかわらず遺伝子という比較的少数の原子からなる小さな構造が、世代を超えて驚くほど正確な規則性(遺伝の法則)を生み出している点に逆説を見出す。
この逆説を解く鍵として、マックス・デルブリュックが1935年にニコライ・チモフェーエフ=レソフスキー、カール・ツィンマーと発表した「三人論文」(ショウジョウバエへのX線照射による突然変異実験)を引用し、遺伝子を「非周期性結晶(aperiodic crystal)」として捉える構想を提示する。通常の結晶が単純な構造の周期的な繰り返し(周期性結晶)であるのに対し、遺伝子は少数の構成要素の非周期的な配列によって、モールス信号や点字のようにごく少ない「文字」の組み合わせで膨大な情報(生物の発生・形質のすべての設計図)を担いうる、という着想である。この非周期性結晶という概念は、後にDNAの二重らせん構造として実証される遺伝暗号のイメージを、構造がまだ判明していない段階で先取りしたものとして高く評価されている。
さらにシュレーディンガーは量子力学の視点から、分子の安定性やエネルギー準位の離散性(量子飛躍)を用いて、突然変異がなぜ稀にしか起こらず、かつ非連続的(飛び飛び)に起こるのかを説明しようと試みる。分子は複数の安定な異性体(アイソマー)の間をエネルギー障壁を越えて量子飛躍的に移り変わることができ、この飛躍が遺伝子の変化=突然変異に対応するという仮説である。この枠組みにより、X線照射のような外部エネルギーが変異率を高めることも自然に説明される。
本書最大の概念的遺産が第6章の「負のエントロピー(neg-entropy)」である。熱力学第二法則によれば、孤立系のエントロピー(乱雑さ)は時間とともに増大し、やがて熱平衡という最大乱雑状態(事実上の「死」)に至る。生物はこの法則に逆らっているように見えるが、シュレーディンガーは生物が外部と物質・エネルギーをやりとりする「開放系」であり、環境から秩序だった低エントロピーの物質(食物、あるいは植物における太陽光)を摂取し、乱雑な高エントロピーの老廃物・熱を排出することで、自らの内部エントロピーの増大を相殺し続けている、と説明する。すなわち生物は「負のエントロピーを食べて生きている」のであり、通常の統計力学が扱う「無秩序から秩序が生まれる」現象とは異なり、生命では「秩序が秩序を生む」という特異な様式(染色体分子が持つ既存の秩序をひな型として新たな秩序ある個体を作る)が働いていると論じた。
具体例
デルブリュック・チモフェーエフ=レソフスキー・ツィンマーによる1935年のショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)へのX線照射実験とその線量-変異率データは、遺伝子のおおよその物理的サイズ(原子数にして概算1000個程度)を見積もる根拠として詳しく引用される。また遺伝子の安定性を放射性原子の半減期になぞらえる論法や、モールス信号・点字を例に「少ない要素の組み合わせで膨大な情報を表現できる」非周期性結晶の考え方を平易に説明する箇所も本書の特徴である。人体が絶えず物質代謝によって構成分子を入れ替えながらも一定の体温・構造を維持し続ける「定常状態」も、負のエントロピー概念を具体的にイメージさせる例として挙げられている。
実践への応用
本書は実務的な技術書ではないが、その後の科学史に決定的な影響を与えた点で応用上の意義が大きい。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、それぞれ独立に本書を読んで物理学からDNA研究へ転向する動機となったと自ら証言しており、クリックは1953年の二重らせん構造発表後にシュレーディンガー本人へ謝意を記した書簡を送っている(現在はダブリン高等研究所に保管)。X線結晶構造解析でDNAの構造解明に貢献したモーリス・ウィルキンスも物理学出身であり、本書に触発された世代の一人とされる。本書はこのように、20世紀半ばに多くの物理学者を生物学の領域へ導き、分子生物学という新しい学際分野が生まれる知的土壌を作った。
また「負のエントロピー」という概念は、後にイリヤ・プリゴジンが提唱した非平衡熱力学における「散逸構造」理論(1977年ノーベル化学賞)によって数理的に精緻化され、開放系・非平衡系としての生命という見方は、現代のシステム生物学や生命起源研究におけるエントロピー生成の議論にまで受け継がれている。一般読者にとっても、代謝・老化・生態系のエネルギー循環を「エントロピーの出し入れ」という物理的な枠組みで捉え直す視点を与えてくれる点で、日常的な自然観を更新する応用価値を持つ。
位置づけ・評価
本書は専門的な生物学知識という点では当時すでに時代遅れの部分を含み(DNAの塩基配列や二重らせん構造は本書執筆時点では未発見であり、遺伝子の物理的実体は抽象的にしか論じられていない)、後年の科学史家サホトラ・サーカーらは、遺伝物質の重要な性質はすでに1920年代にハーマン・J・マラーらによって指摘されていたとし、シュレーディンガーの「独創性」を過大評価すべきでないと指摘している。それでもなお本書は、物理学の言葉で生命現象を捉え直すという知的態度そのものによって多くの若手研究者を触発し、分子生物学の勃興を用意した記念碑的著作として科学史上の評価は揺るがない。トリニティ・カレッジ・ダブリンでは1995年以来「生命とは何か」を冠した記念講演シリーズが毎年開催され、2018年には出版75周年を記念する国際会議も開かれた。日本では岡小天・鎮目恭夫による訳(岩波文庫)が広く読まれ、物理学と生物学の橋渡しをする20世紀科学書の古典として位置づけられている。