3行でいうと

  • CRISPRは、細菌がウイルスから身を守る免疫の仕組みが原点である
  • ガイドRNAで狙った場所のDNAを切れるため、遺伝子編集が簡単で安価になった
  • 人の受精卵や生殖細胞の編集は、科学者と社会が慎重に議論すべき問題である

向いている人

ニュースで聞くゲノム編集の中身を、基礎から知りたい人に向きます。生命科学の予備知識がなくても読み進められる当事者の語りです。

読む意味

技術の科学的な中身と、使い方をめぐる倫理の両方を、発見した本人の言葉で読める点に意味があります。書評は、できることとすべきことは違うという問いが、AIなど他の強力な技術にも通じる教訓になると述べています。

読むときの注意

本書は2017年の刊行で、2018年に中国の研究者がゲノム編集を施した受精卵から子が生まれたと発表した件などは、書評によれば本書の警告が現実になったものとして後から振り返られます。

どんな本か

本書は、ゲノム編集技術CRISPR-Cas9の発見者の一人であるジェニファー・ダウドナが、教え子で共同研究者のサミュエル・スターンバーグとともに2017年に書いた手記です。2020年にはエマニュエル・シャルパンティエとともにノーベル化学賞を受けています。細菌が感染したウイルスのDNAの断片を自分のゲノムに記憶し、同じウイルスが来たときに切断して壊す、いわば細菌版の獲得免疫がCRISPRの原点だと説明されます。ダウドナは最初から医療応用を目指したわけではなく、この現象への知的好奇心から研究を始めたと強調されます。

転機は、シャルパンティエとの共同研究で、Cas9というタンパク質がガイドRNAという短いRNAと結びつき、狙った配列のDNAだけを切るはさみのように働くと示した2012年の研究です。ガイドRNAを変えるだけでゲノムのさまざまな場所を切れるため、成功率が100回に1回ほどだった1980年代の遺伝子改変技術に比べ、はるかに簡単で低コストになりました。技術は世界中の研究室に広まり、作物の改良、病気を媒介する蚊の遺伝子操作、遺伝性疾患の治療研究などに応用が進みます。

後半では、この技術が人の受精卵や生殖細胞(次の世代に受け継がれる細胞)に使われうるという問題が中心になります。ある起業家からの相談をきっかけに、著者は自分の技術の力と責任を強く意識するようになり、2015年に中国の研究チームが人の受精卵でゲノム編集実験を報告した後、研究者仲間と国際会議を開いて自主的な指針づくりを議論したと記されます。

中身の柱

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概要

『CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』は、CRISPR-Cas9というゲノム編集技術の発見者の一人であり、2020年にエマニュエル・シャルパンティエとともにノーベル化学賞を受賞したジェニファー・ダウドナが、教え子であり共同研究者でもあったサミュエル・スターンバーグとともに2017年に著した手記である。日本語版は櫻井祐子の翻訳、須田桃子の解説により文藝春秋から刊行された。本書は、もともと細菌が持つウイルスに対する原始的な免疫システムに過ぎなかったCRISPRという仕組みが、狙った場所のDNAを自在に切断・改変できる汎用的な遺伝子編集ツールへと生まれ変わっていく科学的発見の過程と、この技術がヒトの受精卵や生殖細胞にまで応用されうることが判明した瞬間に、発見者自身が感じた責任と恐れを、当事者の視点から率直に描いている。

本の構成

本書は大きく二部構成をとる。前半の「ツール」の部では、CRISPRが微生物学の基礎研究の中でどのように発見され、それがゲノム編集ツールとして実用化されるに至った科学的な発見の道のりが、著者自身の研究人生を軸に描かれる。後半の「課題」の部では、CRISPR技術が農業、医療、生態系管理など多様な分野にどう応用されうるかという可能性と、とりわけヒトの生殖細胞系列(次世代に受け継がれる細胞)を編集することの倫理的な是非をめぐる、科学者コミュニティおよび社会全体での議論が展開される。前半では細菌の免疫機構という基礎科学的な発見の物語が、後半では人類が進化そのものを操作しうる力を手にしたことへの重い責任の物語が語られるという、テーマの転換が本書全体の構成上の大きな軸になっている。

主要な内容(詳述)

CRISPRは元来、細菌が自らに感染したウイルス(バクテリオファージ)のDNA配列の断片を、自身のゲノムの中に規則的な間隔で並んだ配列として記憶しておき、同じウイルスが再度感染してきた際にその記憶と照合して、ウイルスのDNAを切断・破壊するという、いわば細菌版の「獲得免疫システム」であることが説明される。ダウドナは、この基礎生物学的な現象そのものへの純粋な知的好奇心から研究をスタートさせており、当初から医療応用を目指していたわけではなかったことが強調される。研究の転機となったのは、エマニュエル・シャルパンティエとの共同研究により、CRISPRシステムの中核をなすCas9というタンパク質が、ガイドRNAと呼ばれる短いRNA分子と結びつくことで、狙った塩基配列を持つDNAだけを正確に切断するはさみのように機能することを解明した2012年の研究である。この発見により、ガイドRNAの配列を変えるだけで、理論上はゲノム上のどの部位でも自在に切断できるという、極めて汎用性の高い遺伝子編集技術としての可能性が開かれた。

CRISPR-Cas9が既存の遺伝子改変技術と比べて画期的だったのは、その圧倒的な簡便さと低コストである。本書では、1980年代にマリオ・カペッキやオリバー・スミジーズらが開発した「相同組換え」による初期の遺伝子改変技術が、成功率が100回に1回程度という極めて非効率なものであったことが対比的に紹介され、それに対してCRISPR-Cas9はガイドRNAの設計さえ行えば、多くの生物種の細胞で高い効率で狙った遺伝子を改変できるようになったことが強調される。この簡便さゆえに、CRISPR技術はAddgeneのような非営利の分子生物学的資材の共有プラットフォームを通じて世界中の研究室に急速に広まり、農作物の品種改良、病害虫を媒介する蚊の遺伝子操作(遺伝子ドライブ)、鎌状赤血球症や筋ジストロフィーといった遺伝性疾患の治療研究など、幅広い応用が一気に進展することになった。

本書の後半で著者が最も力を入れて論じるのが、この技術がヒトの受精卵や生殖細胞に応用された場合の倫理的な帰結である。ある起業家が、著者に対して「より優れた」子どもを作るためにこの技術を使いたいという趣旨の提案を持ちかけてきた出来事をきっかけに、著者はこの技術が持つ力の大きさと、それに伴う科学者自身の社会的責任を痛感するようになったと述べている。実際に中国の研究チームがヒトの受精卵を用いたゲノム編集実験を報告した2015年の出来事は、生殖細胞系列の編集がもはや理論上の可能性ではなく現実の技術的射程に入ったことを世界に突きつける転機となり、著者を含む研究者たちが自主的に集まって倫理的なガイドラインを議論する国際会議の開催へとつながっていったことが記される。

具体例

CRISPRのルーツを示す具体例として、ヨーグルトなどの発酵乳製品の製造に用いられる乳酸菌をウイルス感染から守るための産業的な研究の中で、細菌がCRISPR配列を用いてウイルスへの「免疫記憶」を獲得している現象が観察されていたことが紹介される。これは、当初は医薬品開発とはまったく異なる文脈である食品産業の研究から、後に人類の医療を一変させる技術の手がかりが見出されたという、基礎研究の思わぬ波及効果を示す好例として語られる。またゲノム編集による治療の可能性を示す例として、WHIM症候群という免疫不全の遺伝性疾患を患っていた「キム」という女性の症例が紹介される。彼女の体内では、ある白血球の前駆細胞に自然に生じた遺伝子の変異(染色体の一部が偶然に欠失する現象)によって病気の原因遺伝子が不活化され、その細胞が増殖することで症状が自然に改善するという、いわば「天然の遺伝子編集」とでも言うべき現象が起きていたことが示され、人為的な遺伝子編集が同様の治療効果を意図的に再現しうる可能性を示唆する具体例として位置づけられている。

実践への応用

本書は専門的な生命科学の解説書であると同時に、テクノロジーガバナンスに関わる読者にとっても実践的な示唆を含む。第一に、著者自身がCRISPRの持つ危険性に気づいた後、自ら研究者仲間に呼びかけて国際会議を組織し、生殖細胞系列の編集に関する自主規制のガイドラインづくりを主導した行動は、強力な新技術を開発した科学者自身が、その社会実装のあり方についても能動的に責任を引き受けるべきだという、科学者倫理の実践モデルを示している。第二に、農業分野への応用可能性(病害に強い作物の開発など)や、鎌状赤血球症のような単一遺伝子疾患への治療応用の議論は、この技術がもたらしうる具体的な便益を理解する材料となり、医療・農業政策に関わる読者の意思決定に資する。第三に、本書が繰り返し問いかける「できることと、すべきことは違う」という視点は、CRISPRに限らず、AIなど急速に進歩する他の強力な技術全般に対しても、その社会的影響を事前に検討する重要性を示す普遍的な教訓として応用できる。

位置づけ・評価

本書は、後にノーベル賞を受賞することになる発見者自身が、技術の科学的内実とその倫理的含意の両方を、平易な言葉で一般読者に向けて説明した数少ない一次資料として高く評価されている。同様のテーマを扱う他の科学ジャーナリストによる著作と比べても、発見の当事者ならではの臨場感と、技術がもたらす脅威に対する率直な自己省察が本書の際立った特徴であり、刊行後にゲノム編集技術がヒト受精卵にまで応用される事態が現実化したこと(2018年に中国の研究者がゲノム編集を施した受精卵を出産させたと発表した事件など)を踏まえると、本書が刊行時点ですでに警鐘を鳴らしていた懸念の正当性を裏付ける記録としても、今日なお重要な位置を占めている。