3行でいうと
- 忘れることは脳が大事な情報に力を集める、適応的な仕組みだと位置づける。
- 日常の物忘れの多くは、そもそも注意を向けていない符号化の失敗による。
- 加齢による自然な物忘れと、アルツハイマー病などの病的な障害は区別できる。
- 思い出す作業は録画の再生ではなく、そのつど組み立て直す再構成である。
向いている人
物忘れが気になり始めた人や、記憶の仕組みを予備知識なしで知りたい人に向きます。
読む意味
誤った記憶の例(交通事故映像の実験など)や認知予備力の研究を通じて、記憶が書き換わりやすいことや、物忘れを過度に恐れなくてよい範囲を知る助けになります。記憶研究の主要な知見を、一般向けにひと通りまとめて見渡せます。
どんな本か
神経科学者で小説家でもある著者が、「なぜ私たちは忘れるのか」という問いに答える一冊です。本書は、人の脳が経験したすべてを覚えるようには作られておらず、重要でない情報を忘れることで、本当に必要な情報に注意を集められるのだと述べます。忘れることは記憶力の欠陥ではなく、脳が効率よく働いている証でもある、という見方です。
記憶は、情報を取り込む「符号化」、保持する「貯蔵」、引き出す「検索」の3段階で成り立つとされます。名前をすぐ忘れるのは、聞いた瞬間に十分な注意を向けていないためのことが多い、という説明です。海馬はばらばらの感覚をひとつの記憶に結びつけ、扁桃体は感情の強さで定着のしやすさを左右し、大脳基底核は自転車の乗り方のような手続き記憶を担うなど、記憶の種類ごとに関わる部位が違うことも解説されます。また、思い出すことは再生ではなく再構成なので、記憶は後から入る情報で変わりうるとします。
後半では、舌先現象のような加齢による自然な物忘れと、日常生活に支障が出る病的な記憶障害の違いが、具体的な目安とともに示されます。アルツハイマー病ではアミロイドβというたんぱく質がたまり、海馬の周辺から病変が広がっていくと説明されます。さらに、忘却曲線や、読み返すより自分で思い出す練習(検索練習)の方が定着に役立つ点、睡眠や外部の補助(メモや通知)の活用などが述べられています。
中身の柱
- 記憶の3段階(符号化・貯蔵・検索)と、記憶の種類ごとに異なる脳の部位。
- 思い出す行為は再構成であり、記憶は変わりうること。
- 患者HMの症例と、記憶の種類ごとの仕組みの違い。
- 加齢による物忘れとアルツハイマー病の見分け方、病気の進み方。
- 忘却曲線と検索練習、睡眠や食事・運動など記憶を助ける習慣。
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概要
1970年11月22日生まれで、ベイツ大学を生物心理学専攻の首席・優等・ファイ・ベータ・カッパで卒業後、ハーバード大学で1998年に神経科学の博士号を取得し、マサチューセッツ総合病院東キャンパス・イェール大学医学部・マクレーン病院・米国国立衛生研究所で神経科学研究に従事し、1996年秋にはハーバード大学医学部で神経解剖学を教えた経験も持ち、2007年に自費出版し後にサイモン&シュスターに買収されニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに59週以上ランクインした小説『アリスのままで』を皮切りに複数のベストセラー小説を発表してきた神経科学者であり小説家でもある著者が、「なぜ私たちは忘れるのか」という問いに正面から向き合い、忘れることを単なる記憶力の欠陥としてではなく、脳が正常に機能している証でもあるという視点から解説した一冊。日常的なうっかり忘れから加齢による物忘れ、そして深刻な記憶障害までを区別しながら、記憶と忘却のメカニズムを分かりやすく描いている。神経科学の専門知識と小説家としての物語的な語り口の両方を兼ね備えた解説になっている。
本の構成
記憶がどのように作られ、保存され、想起されるのかという基本的な仕組みの説明から始まり、日常のうっかり忘れが起こる理由、加齢に伴う記憶の変化と病的な記憶障害(アルツハイマー病など)との違い、そして記憶力を維持し高めるための実践的なアドバイスへと展開する構成になっている。記憶の種類ごとに章を分け、意味記憶・エピソード記憶・手続き記憶・展望記憶といった異なる記憶システムがそれぞれ異なる仕組みで機能していることを順に解説していく構成が取られている。
主要な内容(詳述)
- 忘れることは正常な脳の機能: 人間の脳は経験したすべての情報を記憶するようには設計されておらず、重要でない情報を積極的に忘れることで、本当に必要な情報に注意とリソースを集中できるようにしているとする。忘れることは欠陥ではなく、脳が効率よく機能するための適応的な仕組みだと位置づける。
- 記憶の3段階と関与する脳部位: 情報を脳に取り込む「符号化」、それを保持する「貯蔵」、そして必要なときに引き出す「検索」という3つの段階のいずれかがうまく機能しないことで、物忘れが生じるとし、多くの日常的な物忘れは「符号化」の段階、つまりそもそも十分な注意を向けずに情報を取り込んでいないことが原因だと説明する。タツノオトシゴのような形をした脳部位「海馬」がばらばらの感覚情報を一つのまとまった記憶として結びつける役割を担い、「扁桃体」が感情の強さに応じてその記憶の定着度を左右し、「前頭前皮質」が短時間だけ情報を保持する作業記憶(ワーキングメモリ)を担い、「大脳基底核」が自転車の乗り方のような手続き記憶を貯蔵するという、記憶の種類ごとに異なる脳部位が関与する仕組みが説明される。
- 記憶の想起は再生ではなく再構成: 記憶を思い出す行為は、録音を再生するようにそのまま引き出す作業ではなく、そのつど関連する神経回路を再活性化させて組み立て直す「再構成」の過程であるとし、この性質ゆえに記憶は時間の経過や新しい情報によって変化しうることを説明する。
- 患者HMの症例: 1953年に重度のてんかん治療のため両側の海馬を切除された患者ヘンリー・モレゾン(HM)が、その後55年にわたり新しい出来事を長期記憶として定着させられなくなった一方で、新しい運動技能(手続き記憶)は徐々に習得できていたという歴史的な症例が紹介され、記憶の種類によって脳内の異なる仕組みが働いていることの証拠として位置づけられる。
- 加齢による物忘れと病的な物忘れの違い: 名前や単語が喉まで出かかって思い出せない「舌先現象」といった加齢に伴う自然な物忘れと、日常生活に支障をきたすアルツハイマー病などの病的な記憶障害とを明確に区別する。目安として、車の鍵をどこに置いたか忘れることは正常な範囲だが、鍵そのものが何のための道具か分からなくなることは病的な兆候である可能性が高いといった具体的な見分け方が示される。
- アルツハイマー病のメカニズム: アルツハイマー病では、脳内にアミロイドβというタンパク質の蓄積が進み、有害なプラーク(斑状の沈着物)が形成されることで神経細胞間の情報伝達が阻害されるとし、この病変がまず記憶を司る海馬周辺から始まり、やがて空間認識・実行機能・感情・運動を司る脳領域へと広がっていく進行過程が説明される。
- 忘却曲線と記憶を助ける原理: 19世紀の心理学者ヘルマン・エビングハウスが示した「学習した情報は最初の数日で急速に失われ、その後は緩やかに減少していく」という忘却曲線の研究を紹介し、これを踏まえて、繰り返し思い出す作業(検索練習)を行うことが、ただ読み返すよりも記憶の定着に大きく貢献することを説明する。
- 記憶を助ける実践的な方法: 情報に意識的に注意を向けること、感情や意味と結びつけて記憶すること、十分な睡眠をとることなど、記憶の定着を助ける具体的な習慣を紹介する。
具体例
初対面の人の名前をすぐに忘れてしまうのは、多くの場合その名前を聞いた瞬間に十分な注意を向けていない(符号化の失敗)ことが原因であるという説明や、加齢に伴う自然な物忘れと病的な記憶障害を見分けるための具体的な目安が、日常的な例とともに紹介されている。また、心理学者エリザベス・ロフタスとジョン・パーマーが行った交通事故映像の実験では、目撃者に対して「車がぶつかった時」ではなく「車が激突した時」というように質問文の動詞を変えるだけで、被験者が推定する車の速度や、実際にはなかったはずのガラスの破片を「見た」と証言する割合まで変化したことが示され、記憶がいかに後から与えられる情報によって書き換えられやすいかが具体的に示されている。さらに、生涯にわたり認知機能を調査された修道女たちの研究(ナン・スタディ)では、死後の解剖で脳にアルツハイマー病相当の病理変化が見られたにもかかわらず、生前は症状を示さなかった修道女たちの存在が報告され、「認知予備力」という考え方の根拠として紹介される。
実践への応用
人の名前や重要な情報を覚える際に、聞いた瞬間に意識的に注意を向け、可能であれば声に出して繰り返すこと、物忘れを過度に不安視せず、加齢に伴う自然な変化の範囲かどうかを見極めること、十分な睡眠を確保して記憶の定着を助けることなどが、実践への応用として挙げられる。読み返すだけの復習ではなく、自分で思い出そうと試みる「検索練習」を取り入れることが記憶の定着により効果的であるとされ、また、忘れてはならない予定や作業については、記憶力そのものに頼るのではなくメモやカレンダーの通知、薬入れなどの外的な補助手段を積極的に活用することも推奨される。加えて、緑黄色野菜や魚介類を中心とした地中海式・マインド食などの食事習慣や、日常的な有酸素運動が、加齢に伴う認知機能の低下リスクを下げることと関連しているという研究知見も紹介され、生活習慣全体を通じた記憶力維持の重要性が説かれている。
位置づけ・評価
神経科学者としての専門知識と、一般読者にも親しみやすい語り口を兼ね備えた著作として、記憶と忘却についての誤解を解く一般向け科学書として広く読まれている一冊として位置づけられている。単なる物忘れ対策の実用書にとどまらず、患者HMの症例研究や忘却曲線、認知予備力といった記憶研究史上の重要な知見を一般読者にも理解できる形でまとめている点で、入門的な神経科学書としての性格も併せ持つ。