3行でいうと
- 起業の多さは民族的な特性ではなく、制度と文化の複数の要因が重なった結果だとする
- 兵役の経験と、目上にも疑問を言える気質が、若者の判断力と起業家精神を育てる
- 移民の社会と狭い国内市場が、リスクを取る気質と最初から世界を狙う姿勢を生む
- 政府の資金を呼び水にしたベンチャーキャピタル政策が、産業の土台をつくった
向いている人
地域や国のイノベーションの育て方に関心のある人、スタートアップの背景にある社会の仕組みを知りたい人に向きます。
読む意味
起業の多さを個人の才能ではなく、軍隊、移民、市場の狭さ、政策といった環境の組み合わせで説明します。自分の組織で、若手への権限委譲や失敗への態度を見直す材料にもなります。
読むときの注意
書評は、米国からイスラエルへの多額の対外援助の役割に十分触れていないことや、徴兵の対象外であるパレスチナ人が軍隊経験による起業家育成の恩恵から排除されている点への言及が乏しいことなど、記述が一面的だという批判があると述べます。
どんな本か
2009年に発表された、国家規模のイノベーション論です。人口が数百万人で天然資源に乏しく、建国以来周辺国との紛争が絶えないイスラエルが、なぜ人口比で世界でも突出して多くのハイテク企業を生み出し、ナスダック上場企業数でも米国・中国に次ぐ規模になったのか、という問いから始まります。著者らはこれを民族や宗教の特性に結びつける説明を退け、複数の制度的・文化的な要因が重なった結果だと論じます。
要因の一つは、男女とも原則として課される兵役、とくに諜報・サイバー部門の「8200部隊」や、エリート技術者の育成プログラム「タルピオット」です。イスラエル国防軍では下の階級でも上官をファーストネームで呼び、若い兵士が現場で自ら判断する訓練を積みます。そこで培われた、権威にも臆せず意見を言う気質は「フツパ」と呼ばれます。もう一つは移民です。既存の生活を捨てて新天地に賭けた人々の子孫でできた社会は、リスクへの抵抗が低いとされます。国内市場が小さいため、創業時から海外市場を前提に事業を設計することも、世界で通用する製品を生む動機になります。失敗した起業家に寛容なことも挙げられます。
制度面では、1993年に政府が設立した「ヨズマ」プログラムが、官民連携で本格的なベンチャーキャピタル産業を根づかせた例として紹介されます。事例には、ICQを開発した会社がAOLに買収された話などがあり、最後にこのモデルが他の国に移せるかを考えて締めくくられます。
中身の柱
- 兵役と8200部隊・タルピオットが育てる、判断力と起業家精神
- 権威にも疑問を言う気質「フツパ」と、軍隊の風通しの良さ
- 移民の社会と、狭い国内市場がもたらす世界志向
- 失敗した起業家への寛容さと、再挑戦の文化
- ヨズマなどの政策と、他国への移植の可能性
あわせて読む本
- HARD THINGS同じ起業の分野で、経営者個人の側から読む
- ゼロ・トゥ・ワン起業の考え方を別の角度から論じる
書評データベースの全文を読む
概要
『Start-up Nation』(邦題『アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?』)は、1971年11月6日ニューヨーク州ユーティカ生まれで、西オンタリオ大学卒業後ヘブライ大学に学び、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得し、上院議員スペンサー・エイブラハムの1994年選挙戦スタッフや上院議員コニー・マック三世のスタッフ、AIPAC勤務を経て、2001年から2003年までカーライル・グループの投資銀行家、2003年からはイラク戦争時のペンタゴン・ホワイトハウス顧問としてカタールのドーハに駐在し、2003年4月にバグダッドへ移り連合国暫定当局(CPA)の首席報道官兼ポール・ブレマー大使上級顧問を2004年夏まで務めた外交政策アドバイザーのダン・セノールとジャーナリストのシャウル・シンゲルが2009年に発表した国家規模のイノベーション論である。人口わずか数百万人、天然資源にも乏しく建国以来周辺国との紛争が絶えないイスラエルが、なぜ人口比でみて世界で突出して多くのハイテク・スタートアップを生み出し、ナスダック上場企業数でも米国・中国に次ぐ規模を誇るに至ったのかという問いを出発点とする。著者らは、この現象を単なる民族的・宗教的特性に還元する説明を退け、徴兵制による軍隊経験、移民国家としての性質、失敗への高い許容度、権威に疑問を呈する文化的傾向、そして政府主導のベンチャーキャピタル育成策という複数の制度的・文化的要因が複合的に作用した結果であると論じている。刊行後は米国のニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストで上位に入り、各国の政策担当者にも読まれる国家イノベーション論の代表作となった。
本の構成
本書は、イスラエルのハイテク企業や起業家への取材、軍関係者へのインタビュー、経済統計を織り交ぜながら、テーマ別の章立てで進む。前半では、イスラエルの若者が高校卒業後に原則として男女とも義務づけられる兵役、とりわけ諜報・サイバー部門である「8200部隊」やエリート技術者育成プログラム「タルピオット」に焦点を当て、軍隊組織における実践的な意思決定経験がいかにして起業家精神を育むかが論じられる。中盤では、旧ソ連からの移民やエチオピア系ユダヤ人など、多様な背景を持つ移民たちがイスラエル社会にもたらしたリスク許容的な気質と、国内市場の狭さゆえに創業当初からグローバル市場を志向せざるを得ないという構造的要因が扱われる。終盤では、1993年に政府主導で設立された官民連携型ベンチャーキャピタルファンド「ヨズマ(Yozma)」プログラムなど、政策としてイノベーション・エコシステムを育成した経緯や、経済危機・戦争といった逆境下でも技術投資を継続してきた国家の姿勢が論じられ、最後にこのモデルが他国にどこまで移植可能かという考察で締めくくられる。
主要な内容(詳述)
本書の中心概念の一つが、イスラエル社会に根付く「フツパ(chutzpah)」と呼ばれる、目上の人物や権威に対しても臆せず疑問を呈し意見を述べる文化的気質である。著者らは、イスラエル国防軍(IDF)の組織文化がこの気質を強化していると論じる。多くの国の軍隊が厳格な階級的上下関係を重んじるのに対し、IDFでは下士官・兵卒であっても上官をファーストネームで呼ぶことが一般的であり、若い兵士が実戦の最前線で自ら判断し即興的に問題解決を行う訓練を積む。特に諜報・技術分野を担う8200部隊出身者は、若くして高度な技術的課題の解決や小規模チームでの意思決定を経験し、除隊後にその経験と人脈を生かして次々とスタートアップを創業する「シリアル・アントレプレナー」の供給源になっているとされる。
移民という要因についても詳しく論じられる。イスラエルのユダヤ人人口の大半は移民一世またはその子孫であり、ホロコースト生存者、旧ソ連からの帰還者(ロシア系移民)、エチオピア系ユダヤ人など、既存の生活基盤を捨てて新天地に賭けた人々の子孫で構成される社会は、必然的にリスクを取ることへの心理的抵抗が低くなるというのが著者らの分析である。加えて、国内市場が小さいためにイスラエル企業は創業段階からアメリカや欧州の市場を前提に事業を設計せざるを得ず、これが結果的にグローバルで通用する製品・技術を生み出す動機づけになっているとされる。
さらに、失敗した起業家への社会的な許容度の高さも重要な要因として挙げられる。米国のシリコンバレーと同様、イスラエルでは事業に失敗した経験がむしろ実践的な学びとして評価される傾向があり、再挑戦を後押しする文化的土壌がある。制度面では、1993年に政府が設立した「ヨズマ」プログラムが取り上げられ、政府資金を呼び水として海外の民間ベンチャーキャピタルの投資を誘致し、10年に満たない期間でイスラエル国内に本格的なベンチャーキャピタル産業を根付かせた政策的成功例として論じられている。
具体例
本書で紹介される代表的な企業事例として、イスラエル発のインスタントメッセンジャーサービス「ICQ」を開発したミラビリス(Mirabilis)社が1998年にAOLに約4億700万ドルで買収された事例、セキュリティソフト大手チェック・ポイント・ソフトウェア・テクノロジーズ(創業者ギル・シュエド)の成長事例、インテルがイスラエルの研究開発拠点で低消費電力プロセッサ「Centrino」の基盤技術を開発した経緯などが挙げられる。また、電気自動車のバッテリー交換方式によるインフラ構築を目指したシャイ・アガシ率いるベタープレイス(Better Place)社の野心的な事業構想も、当時進行中のプロジェクトとして紹介されている。政治的な反響として、リトアニアのアンドリュス・クビリウス首相が本書を愛読書に挙げたことや、当時のパレスチナ自治政府首相サラーム・ファイヤードが本書を机上に置いていたと報じられたこと、CNNのファリード・ザカリアがアラブ諸国のビジネスリーダーに必読を勧めたことなども言及される。
実践への応用
本書は個々の企業向けハウツー本ではなく国家・地域レベルの政策論であるが、そこから得られる実践的示唆は組織運営にも応用できる。第一に、意思決定権限を若手や現場に大胆に委譲し、階級や年功にかかわらず疑問を提起できる組織文化を醸成することが、現場発のイノベーションを促す土台になるという点である。第二に、失敗した挑戦者を排除するのではなく、その経験を次の挑戦の糧として積極的に評価する仕組みを作ることが、組織全体のリスクテイク意欲を高める。第三に、国内・社内の小さな市場に閉じずに、最初から海外・全社的な展開を前提に製品やサービスを設計する視点が、より大きな成果を生み出す動機づけになり得る。政策担当者にとっては、官民連携によって呼び水となる公的資金を投じ、その後は民間主導のエコシステムに委ねていくヨズマ型の段階的な政策設計が、地域イノベーション振興の一つのモデルケースとして参照可能である。
位置づけ・評価
本書は2009年の刊行後、複数国の政策担当者や経営者に読まれる国家イノベーション論の代表作となり、イスラエルが「スタートアップ・ネーション」という通称で国際的に認知される契機の一つとなった。一方で、本書が米国からイスラエルへの多額の対外援助(建国後数十年にわたりGDPの一定割合を占めたとされる)の役割に十分に触れていないことや、パレスチナ人が徴兵制の対象外とされ本書が描く「軍隊経験による起業家育成」の恩恵から構造的に排除されている点への言及が乏しいことなど、記述の一面性を指摘する批判も存在する。日本ではダイヤモンド社より本邦題で翻訳・刊行されており(訳:宮本喜一)、国家レベルでのスタートアップ・エコシステム論やイノベーション政策の文脈でしばしば参照される一冊となっている。